「木田」は、平安時代の荘園「木田庄」から、江戸時代の「木田地方」、明治時代の「木田村」へとつながる古い郷名です。

「木田遺跡」弥生から古墳時代の木田

 木田地区には、弥生時代から人々が生活していた跡があります。木田遺跡は、昭和45年、木田町の畑から土器が見つかったことから発掘調査され、弥生時代の終わりから古墳時代初めの集落遺跡であることがわかりました。竪穴式住居で家族が暮らし、稲作を中心とした農業を営んでいた様子が、出土した鍬(くわ)や装飾品の勾玉(まがたま)から想像されます。遺跡は市街化で破壊されないよう「新木田公園(にんじん公園)」の下に保存されています。

奈良興福寺の荘園「木田庄」

 木田地区は、足羽川が運んできた土砂が堆積してできた平野が広がり、奈良時代には水田がつくられ古代律令制の下で農村が営まれていました。そして、平安時代から室町時代前期まで、奈良興福寺領の荘園「木田庄」という名が使われるようになります。木田庄は、現在の木田地区から足羽山や八幡山の東麓までを含み、西木田のあたりが中心であったと考えられています。

江戸時代の「木田地方(ぢかた)」

 朝倉氏の滅亡後、織田信長は一向一揆を平定した柴田勝家を北庄城主とします。しかし、その後羽柴秀吉の攻撃で城は焼け落ち勝家がお市の方とともに自害します。そして、関ヶ原の合戦後、越前国北庄68万石を拝領した結城秀康が新たな築城と城下町の拡大に着手します。江戸時代の木田庄は、北陸道筋の木田町組と城下町に接する農村の木田地方に分かれます。木田地方の村々では、武家・町方をあわせ3万人を超える城下の人々に、新鮮な野菜を供給していました。

「木田村」の誕生

 明治22年(1889)市制・町村制の施行により、山奥・花堂・木田地方・板垣・下馬の5ケ村が合併して「足羽郡木田村」が発足します。江戸時代の木田町組や木田地方の都市化した部分は福井市の領域となり、木田地方の農村部が木田村に属することとなります。当時、大町村と大町別所村は六條村でした。福井県足羽郡誌に『村名は在郷の名を採りしなり、また、木田といふ名称は土地低くして池沼多きため木をおき苗を植えたるより称せしといひ伝わるも信ずるに足らず』と書かれています。

木田村の人々の暮し

 明治7年の木田村の戸数は、下馬101板垣107木田地方は不明、六條村の大町36大町別所46。明治26年の調査では戸数506人口2,833でした。平成30年の世帯数5347、人口14812と比較すると120年余りで世帯数はおよそ10倍に増えたことになります。木田村の北陸道に沿った木田地方では商業が発展し、下馬や板垣、大町や大町別所では田圃が広がっていました。明治44年の村の農業生産を見ると、米7,355石、大根17.5万貫、大麻715貫で、近郊農業として大根・かぶらなどの栽培や乳業(木田地方に柴田牧場)、養鶏が盛んでした。

初代杉田村長の功績

 木田村の初代村長となった杉田惟衛(これえ)は、「何とかして村立の小学校を」と思い、明治23年、自分の屋敷に「簡易科木田小学校」を建てました。当時、小学校に就学する子どもたちが6割程度であったため学校の創立が急がれていたのです。敷地は福井藩の家老職であった杉田家の下屋敷を、村のために売却したものでした。当時の学校の写真にうっそうと樹々が生い茂っているのは下屋敷の老木がそのまま残っていたものでした。

木田尋常小学校の創立

 木田小学校は、明治5年(1872)の学制領布によって、みのり2丁目の福井本山(中野本山)専照寺を借りて開校したことに始まります。その後、明治22年に市制・町村制が施行され「木田村」が誕生。明治27年(1894)に「木田尋常小学校」が創立されました。木田地方にあった「木田尋常小学校」の跡地は、春日2丁目の春日郵便局付近で現在石碑が建っています。初代校長として着任した斉藤巧界は、式の時以外は常に黒い詰襟の洋服で、立派な八の字のひげをはやし威厳をそなえていたそうです。

足羽川の霞堤防と舟渡し

 足羽川には現在連続した堤防がありますが、明治以前は霞堤防といわれ必要な所に土手を築いた切れ切れの堤防でした。板垣、下馬、木田地方では、しばしば決壊し良田が荒らされたため、江戸時代、木田地方に洪水を防ぐための放水路が造られました。この足羽川放水路の跡が後に工場地として造成され、セーレン株式会社の起源となったのです。木田地区には、足羽川を渡る「板垣の舟渡し」と「下馬の舟渡し」がありました。

北陸道と東郷街道

 北陸と京都を結ぶ「北陸道(北国街道)」は、九十九橋で足羽川を渡り、藤島神社の鳥居を過ぎた交差点から東南東に向きを変え「木田四つ辻」に向かいます。道沿いには木田神社と長慶寺があり、「木田四ツ辻」は北陸道と東郷街道が分岐するところです。東郷道は、現在のJR北陸線を越えて東に向かい、板垣、下馬から小稲津の集落を通って宿場町であった東郷に至ります。そして足羽川を渡ったところで、城下の「勝見口」から足羽川右岸を通ってきた「羽生街道」と合流し「美濃街道」へと続きます。

鉄道「北陸線」の開通

 明治の地図で木田地区に初めて鉄道が現れます。北陸本線は、明治22年(1889)敦賀港と長浜を結ぶ「北陸線」として開業し、明治29年(1896)敦賀-福井が開通し福井駅や大土呂駅が営業を始めました。蒸気機関車を「陸(おか)蒸気」と呼んだ頃からおよそ130年。日本海側の縦貫鉄道として産業・経済の発展に重要な役割を果たしていた北陸本線に、平成27年長野-金沢間の「北陸新幹線」が開業。そして令和6年春に敦賀まで延伸され、足羽川の新たな橋梁に北陸新幹線が走ります。

世界かんがい施設遺産と木田用水

 平成28年、足羽川用水が歴史的価値のある「世界かんがい施設遺産」に選ばれました。足羽川用水は広大な農地をかんがいする幹線水路の総称で、徳光、六条、木田、社江守、足羽四ケ、足羽三ケ、酒生の7用水からなり総延長は約22キロに及びます。江戸時代の用水奉行 戸田弥次兵衛によって整備され、取水口をまとめ水争いの緩和にも役立ったとされています。木田用水は、天神橋に近い「脇のヲサ(脇三ヶ町字筬)」で足羽川から直接取水し、毘沙門・脇三ヶ・小稲津・下馬・板垣・大町・山奥・木田地方をかんがいしていました。

木田の町名の移り変わり

 明治24年の市街図に明治の新町名と藩政時代の旧町名が記録されています。蓮台寺町、観音堂町などは寺院に、油屋町、鍛冶町は職業集団に、春日町は春日神社、堀町は北ノ庄城主堀秀政公、橘屋敷町、橘屋敷門前町は、西木田にあった有力商人橘家に由来がありました。昭和11年に木田村が福井市へ編入し、木田町、堀田町、昭和町、一本木町、春日町、井手町、下馬町、板垣町ができました。昭和31年には、足羽村が編入して大町と別所町が。その後も、区画整理事業に伴って羽水1丁目といった丁目の付いた、木田、春日、板垣、下馬ができました。

寺子屋の歴史と下馬村私塾小学校

 江戸時代、木田村には、木田地方の「大島屋」、下馬村の「応善寺」、花堂村の「秘鍵寺」、豊町の「中野本山対面所」に寺子屋がありました。寺子屋では、日常生活に役立つようにと読み・書き・そろばんなどを教えていました。そして、明治5年の学制領布により、寺子屋は廃止され、新たに学校として許可を受けることになりました。下馬・板垣・小稲津の学校は、下馬の応善寺を教場とした「下馬村私塾小学校」に開かれました。応善寺住職の葦野敬温は、明治6年、学校の開業を許され、地域の子どもたちの教育に尽力しました。

大町専修寺と如道上人

 仏教王国といわれる福井。その中心となっているのが浄土真宗です。真宗の開祖は親鸞、そして中興の英主といわれた蓮如によって、越前に真宗王国の基盤が築かれました。しかし、その蓮如の布教に遡る鎌倉時代末期、越前に優れた思想家が登場しています。それが如道でした。如道は大町道場(大町専修寺)を建てて布教を始め、真宗高田系の最大拠点を創りあげたのです。現在、中野本山と呼ばれ親しまれている専照寺は、如導上人が仏法興隆のため大町の地に一宇を建立したところから始まる寺院です。大町には如導上人の御墓があります。

豊饒な大地の源「木田用水」

 木田地区は足羽川の土砂運搬で形成された自然堤防と、背後の広大な低湿地(後背湿地)に二分された稲作地帯です。鎌倉時代の木田地区は奈良・興福寺のもとで荘園開発が進み、足羽川の水運や、北陸道との結節利点を活かしながら、現在につながっています。足羽川から取水された「木田用水」の恵みは細かく分流して多くの田を潤し、収穫増産につなげてきました。近年は宅地化や区画整理事業、用水路のパイプライン化で流れを見つけることは困難となりましたが、住宅地を横切って狐川や足羽川につながる深い側溝にも面影を残しています。

福井刑務所の歴史

 福井刑務所は、明治4年松本地区に福井囚獄署が設置され、その後司法省所轄の福井監獄となり、大正6年に木田地区の一本木町に新築移転しました。その当時は付近に民家はなく、刑務官の宿舎が2、3軒建っているだけで、刑務所周囲の野菜畑では作業服を着た囚人が看守に見守られて働いている情景が見られました。昭和20年の戦災で全焼し、その後、仮舎房や雑居房などを復旧させていましたが、昭和23年の福井地震によってほとんどが倒壊。地震当日は、217名を収監していましたが、地震が収まるのを待って刑務所裏の足羽川に避難し、河原で一夜を明かしたそうです。施設内に、福井地震で全壊後復旧された昭和27年の表門が残されています。